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萩原眞と恋するフォーチュンクッキーの関係や名前の理由を経歴から調査!


こんにちはフラムです。

 
「情熱発掘!エライ人 」で山梨県に生まれた男「萩原眞」さんについて紹介されます。

なんとこの方がAKB48の名曲「恋するフォーチュンクッキー」に大きく関係しているといわれます!

 
そもそも萩原さんは160年前の人間で、AKBは2,000年代から有名になっていったので

どう見たって接点はなさそうに見えるのですが・・・・

 
今回は萩原真さんとAKBの関係を萩原さんの経歴から調査をしていきます!

 
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萩原眞の経歴について大まかに紹介

 

引用元

萩原さんは1857年に山梨県に生まれます。

実家は農業と製糸業を経営しておりましたが、父親がお亡くなりになりました。

 
その後明治12年にサンフランシスコに渡り、明治21年後にサンフランシスコの

支那町の一角に日本料理店「大和屋」をオープンすることになるのです。

ちなみにアメリカで初の日本人が経営した料理屋です。
 
その後はオークランドにも出店をするのですが失敗に終わります。

ですが、シカゴでのゴールデンゲートパーク開かれた「世界万国博覧会」で出展した

喫茶店の評判がよく、博覧会が終了した後も、希望によって存続されることになりました。

後でゴールデンゲートパークはもっかい出てきます。
 
1894年には、ゴールデンゲートパークで日本庭園(japanese tea garden)を築き
1925年にお亡くなりになるまでずっとそこに暮らしていました。

 
簡単に言うと、萩原さんは実業家でしたが、アメリカで成功した初の日本人でもあります。

生前はずっとシカゴに住むことができたのはすごいですね・・・・!

 
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フォーチュンクッキーを作った初の日本人が萩原眞?

 
萩原眞さんとフォーチュンクッキーに関しては書かれてある書物が少ないのですが

裁判では萩原さんが1907年から1914年頃にフォーチュンクッキーを作ったという説が認められています。

 
ちょっと話をそらしてフォーチュンクッキーについて紹介しますが

フォーチュンクッキー自体は日本の江戸時代の菓子がアメリカに持ち込まれ
その後第二次世界大戦時による影響で日系移民の店が消えた後、中国人経営の店で引き継かれ
そこからアメリカ全土に広まったという説が有力とされています。
 
 
特徴的なのはおみくじ的要素が含んでおり、クッキーの中に紙がございます。

中にはよくわからない言葉も混ざっているものもあります。

引用元

 
つまり、フォーチュンクッキーは結果的にアメリカの文化としてなったのですが

先ほど書いた通り1910年から1914年の間に萩原さんはゴールデンゲートパークで

開いた日本庭園で提供をしていたといわれています。

 
一説によると、萩原さんは訪れた客のお茶請けとして

前餅(japanese cookie)を提供しました。その際、萩原さんは辻独前餅をヒントに作ったそうです。
 
その中に自分たちで書いた占いの紙を入れていたそうです。

それがフォーチュンクッキーの元祖ではないかといわれていますが
萩原さんは特許を取っておらず、さらに名前も付けていなかったのです。
 
その後萩原さんは経営を「Benkyodo」に任せて

日本庭園(japanese tea garden)でフォーチュンクッキーを提供していました。
 
ちなみに「Benkyodo」はこちら

 

引用元

また日本庭園(japanese tea garden)はこちらです。
シカゴにあったんですね・・・・

 

引用元

 
ただ、その後萩原さんとフォーチュンクッキーに関する記載はないので

これ以上の話はありませんが、萩原さんがフォーチュンクッキーを作ったという話は

嘘ではない可能性が高いと思います。

 

AKBと萩原さんの関係は?

 
これに関してですが、なぜか調べても出ませんでした・・・

そもそも恋するフォーチュンクッキーの由来が秋元さんくらいしかわからないので

私たちにとっては知りようがないのです・・・・

 
ただ、萩原さんが作ったという話は本当っぽいのですけどね・・・

その代わり、秋元さんがどうやってフォーチュンクッキーを知ったかによりますが・・・

海外に行っていた時にフォーチュンクッキーを見たというのなら
萩原さんと関係があるとはとてもじゃないけど言いにくいですし・・・
 
最後はしっくりいきませんでしたが以上になります。

最後までお読みいただきありがとうございましたー

 
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